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安全性の高いレーシック手術とそうでないレーシック手術、あなたはどちらを選びますか?
医師の言葉に法廷はどよめいた九一年六月七日、東京地方裁判所。
一〇三号法廷の傍聴席は、いつもぎっしりの人で埋まるが、この日は初めての証人尋問だったので、さらに空席を待つ人が廊下に並んだ。
Y.K教授は一九六〇年代から血友病の治療にかかり、これまでに二〇〇人の患者を診てきた専門医の第一人者であり、厚生省の「HIV感染者発症予防・治療に関する研究班」の班長をつとめている。
証言は、血友病の定義に始まり、血友病患者のHIV感染は非加熱の血液製剤によるものであること、患者の感染の時期、Y.K教授は早くから血友病患者の免疫障害に気づき調査をしていたことなどに及んだ。
しかしエイズ問題を解決しなければならない厚生省エイズ研究班の小委員会では、緊急対策をうち出さなかった。
現在、血友病の感染者は医療的にも社会的にも苦境においやられている。
Y.K教授は静かに言葉を選びながら証言をすすめた。
「そして最後に医師が一番愚かであったと思います。
こういう事態になった時に、医師が一番社会的な問題を考えなければならなかったと深く反省しています」と述べた。
法廷にさざ波のようなどよめきが広がった。
私も必死でメモを取りながら、ため息ともつかない声が出た。
Y.K教授は厚生省のエイズサーベイランス委員の一人でもあり、治療班の班長いとう要職にある。
国を訴える裁判の原告側の証人となることへの圧力はあったろうし、「国に不利な証言はしないのではないか」と不安がる感染者もいた。
Y.K教授がどのような証言をするか、は未知の部分、が多かったのだ。
ところガンの証言は真摯で、感染を許した医師としての後悔と深い謝罪の気持ちにあふれていた。
このことは何とも言えず嬉しかった。
A.Nさんは私の興奮ぶりを笑いな、がら、今後の展開を考えると、幸先がよいと喜んだ。
そしてA.Nさんの著書、『あたりまえに生きたい』がいよいよ出版されるので、七月一八日、大阪地裁の公判の前日に出版記念会を開くと言った。
六月一三日の夜、このパーティーに招く人を決め、各方面への手配を終えてワトフロに手紙を打っていた時、突然、倒れた。
奥さんに「少し冷やさなければ……アイスノン……」と言ったところで意識を失った。
『E新聞』のK記者や主治医が駆けつけた。
救急車で県立今治病院に運ばれ、CTスキャンで脳の断層を撮影された。
フィルムで見ると、脳の四分の一くらいを出血が覆っている。
深夜、救急車で愛媛大学付属病院に転院した。
A.Nさんは「いざとなったら愛媛大学へ」と言っていたからである。
愛媛大学の医師たちの診断では、「手術をしても助かる可能性は五分以下、それも社会復帰の可能性はない」とのこいたった。
ずっと付き添ってきたK記者によれば、A.N夫人が「内科的治療をお願いします」と言い、妹のMさんもうなずいた。
「倒れた時はジタバタするな。
静かにしておいてほしいい主人は言っていましたから」外科手術はしないことが決まった。
高熱と発汗、嘔吐が続いた。
私のところへ危篤の連絡が入ったのは翌日。
すぐにM.Yへ向かった。
病院に着いた時には夜になっていた。
A.Nさんは名札のかかっていない個室にいた。
人工呼吸器がっけられ、降圧剤や血液製剤のチューブにつながれて眠っていた。
奥さんはずっと枕元に立って、A.Nさんの汗をぬぐっているように見えるだけだった。
奥さんは「聴力は最後まで残ることがあるから、聞こえているかもしれないわね」と言いながら、髪や頬を撫で、耳たぶを触ってば、涙を流し、ぬぐおうともしなかった。
時々、A.Nさんは苦しそうに咳こんだり、足、が痙摯する。
私も付き添っている彼の姪と一緒に、手や足をさすることしかできなかった。
熱はだいぶひいたらしく、手足はそれほど熱くなかった。
回診に来た医師は、「今夜は落ち着いているから、もつでしょう」と言った。
看護婦も耳元でA.Nさんに呼びかけながら様子をみる。
エイズ患者が入院した時、病院によっては不必要なくらいものものしい過剰防備で対応するところがあるが、この病院の対応は自然に感じられた。
あとで聞けば、病院側はA.Nさんの入院をカメラマンや記者にかぎつけられるのを恐れ、病室に名札を出す・出さないで家族との間に多少のやりとりがあったようだったが、もう奥さんも落ち着いていた。
翌日も奥さんや妹さんだちと手足をさすりながら、A.Nさんにまつわるよもやま話をして過ごした。
「今までこんなに苦しんできたのに、まだ生きたいというのだから、兄の生命力はすごく強いのよ」と妹の一入が言った。
A.Nさんがいつか、「体が丈夫なうちは死ぬことなんて恐いと思わなかったのに、体が弱まってくると、まだ生きたい、生きたといいう執着が出てくる」と言っていたのを思い出した。
前日、旧友で禅寺の住職のN.Yさんが「仏教には来世はない」と突然言い出して、姉妹の間では「それでいい」と言う人と「イヤ」と言う人が論争になったそうだ。
A.Nさんにもし聴覚だけが生きていたら、こうした論争に自分が加われないことを悔しがったにちがいない。
“死”に関わる話をよくする人たった。
一番好きな画家は、夭逝した中村彝。
三〇年ほど前、東京の展覧会でその作品「饉を持てる自画像」を初めて見た時、絵の前に三〇分も立ちつくし、動けなかったという。
今までA.Nさんと交わした会話や、耳にしたつぶやきが、次から次へと思い出され、「ああ、そういえばこんなことを言っていた……」、「あんなことも……」と、ベッドのまわりの女たちの話は、きりがなかった。
皆、死がやって来るのを覚悟しているが、どの顔もうち沈んでいるわけではない。
ベッドのまわりは、静かで和やかだった。
やり残した仕事がいくつもあるから、今ここで立ち去るのは心残りだろうけど、「ほんとうに、よくがんばりましたね。
ご苦労さま。
ゆつくり休んでね」という共通の思いが、A.Nさんのまわりを囲んでいた。
亡くなったのは、この三日後の六月一七日。
すぐに解剖されて、お通夜と葬儀がひっそりと行われた。
故郷でとりおこなえば騒ぎが心配だということで、他所が選ばれた。
すべてが終わった一八日、A.Nさんの死が伝えられ、ニュースとして全国に流れた。
私も出先に入ったN放送局今治通信部からの連絡で、その死を知らされた。
その日は行きあたりばったりの店で、弔いの酒を飲んだ。
布が持つ不思議な力について、それまであまり考えたことがなかった。
だからていねいに梱包されて、アメリカから運ばれた一九二枚のメモリアルキルトが、京都市美術館の会場いっぱいに展示された時の衝撃は大きかった。
これはすごい。
しかし、このすごさは、写真やビデオカメラを通してしまうと十分に伝わらないのではなかろうか。
どう伝えたらいいのだろうか。
撮影のさなか、番組の仕上がりを思い浮かべながら考え込んでしまった。
キルトはどれも美しく、見る者の心を揺さぶる力を持っていた。
それも強引な揺さぶりではなく、優れた芸術品に出会った時のように、静かに心の琴線に触れてくる。
メモリアルキルトとは、エイズで亡くなった人を追悼するために、畳一畳分(約九〇センチメートル×一八〇センチメートル)の布に、故人の家族や恋人、友人たちガンの人の名前や思い出やメッセージを縫いこんだものである。
“布の墓標”と言ってもいいのだが、布であることのあたたかさと自由さが、これらを素朴派の芸術と言ってもいいような作品群にしている。
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